ドクタープロフィール
神津 仁 院長
神津院長は昭和52年に日本大学医学部を卒業後、同大学第一内科に入局され、その後、神経学教室が新設されると同時に同教室へ移られました。医局長、病棟医長、教育医長を長年勤められ、昭和63年、アメリカのハーネマン大学およびルイジアナ州立大学へ留学。帰国後、特定医療法人佐々木病院(内科部長)を経て、平成5年に神津内科クリニックを開業された。神津院長の活動は多岐にわたり、その動向は常に注目されている。
2008年9月号
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医の心-先輩医師に学ぶⅡ


 最近、私のクリニックの近くにワイン専門店があることに気付いた。村上龍氏が配布しているメールマガジンに「おやっ?」という記事が載ったことが始まりだった。フランスのローヌ地方で活躍する「自然派日本人醸造家、大岡弘武氏」が作るワインが美味しいというのだ。
 「ル・カノン」というのがそのワインで、普通は澱(おり)を丁寧に除くのだが、そのワインは濁らせたまま瓶詰めされているという。これを輸入しているのが「La Cave de la Petite Maison(カーヴ・ド・プティットメゾン)」という店。どこにあるのかとその住所を見ると、世田谷区上馬3-6-14、とある。地図ソフトで調べると、あるある! 歩けばクリニックから15分ほどの国道246と環七の交差点から少し入ったところにあることが分かった。こうなったら早速行くしかない。

午後の往診がない昼休みに、夏のギラギラと輝く太陽に肌を焦がしながら歩いて行ってみた。

 瀟洒な建物の入り口には、ワイン好きな人を迎える洒落た雰囲気を感じる。店内は一歩上がるように明るい色調の木の床になっていて、陳列するワインを見て歩くのに適当なハイライトを与えてくれる。右奥にはひんやり冷えたワインセラーがあって15℃に保たれていた。暑い夏の午後には嬉しい冷気だが、すぐに肌寒くなった。これだけ大きなセラーをしっかり冷やすのは大変だと思う。ロマネコンティもこの中にあって、私の目を楽しませてくれる。

 

 

 お目当てのカノンV白は少し待たないといけないが、コート・デュ・ローヌG2006とカノンルージュP甘口赤2007(たまたまグルナッシュの収穫を1週間遅らせたところ、糖度の高い甘いポートタイプのワインが造られたのがこれ)を買うことが出来た。「ぐいぐいと飲んで頂いて良いワインです」と店主が勧めてくれたので、数日のうちにぐいぐいと飲んでしまった。しかし、いつも味わう高価なワインは、1/3ボトル飲むと酔い心地が強くなるが、このワインは1/2ボトル飲んでもあまり酔わない。それだけでなくて次の日に持ち越さない。
 確かに、コルクの締まったワインなのだが、のど越しが良い。気のおけない友の様でもあり、角の取れた中学の女友達の様でもある。これがグルナッシュ100%のワインなのだと思う。これが熟成され、他のブドウと混じると、ここに取り上げた先輩医師たちのように、個性のある味わいになるのだろうか…。

大岡氏と彼が造ったワインたち

       

 蛇足だが、コート・デュ・ローヌは「フランスは北にあるヴィエンヌの町から南のアヴィニオンにかけて、約200キロメートルにわたるローヌ川沿いのぶどう畑がローヌワインの故郷。日照量に恵まれているため、ワインは全般的にアルコール度の高い、力強いものとなる(世界の名酒事典2006年版p267.)」。試しに他店で買ったコート・デュ・ローヌ2006を飲んでみたが、似たような味がした。大岡氏のものは100%グルナッシュ種のブドウで造ったものだが、他店のものはおそらくグルナッシュ、サンソー、シラー、カリニャン、ムールヴェードル、ヴィオニエなどをうまく混ぜて個性を出したものなのだろう、渋みもある。中学生の頃バスに乗るたび昔憧れていた、お茶大附属高校のあの女の子を思い出させた。ほろ苦い思い出でもある…。
 さてワイン談義はこの辺にして、早速先人の言葉を聞いてみよう。

いつ飲めるかとワクワクする、ワインセラーの中のちょっとした豪傑たち

 


東京慈恵会医科大学名誉教授、阿部正和
「兵学校の教官を1年たらずやりました。その時に身についたことというのは、しつけなのです。生活上のしつけなのです。これはくだらないようなことだけれども大事なことです。三つあるのです。 第1は挨拶の励行です。人に会ったら必ず挨拶をすること。第2は時間の厳守です。海軍には5分前の精神というのがありまして、何でも集会、集まりがある時には5分前に集まっているということが大事なので、時間を守るということを覚えましたね。第3は服装をきちんとしていなければいけないと。ボタンがはずれていてもいけない。服にゴミがついていてもいけない。服装のことはやかましく言われましたね。挨拶の励行、時間の厳守、服装を整えるという、この三つのしつけ教育を海軍で学びました。」 「ご存じのとおり、医師というのは知的な専門職である。知的専門職には五つの条件があります。 第1には使命感をもたなければならない。第2には一般教養を豊かにもつべきである。第3は長い修練期間が必要で、あわせて国家的な免許をもたなければならない。医師免許ですね。第4が生涯にわたって勉強しなければならない。これが生涯教育。第5は商売ではない。公的なサービスである。天職であるという、五つの条件が揃った時に、これを知的専門職というのです」


国立がんセンター名誉院長、市川平三郎
「私が患者になった時の経験から想像しますと、患者が何を求めているか早くキャッチできる人が親切な人だと思うのです。患者さんが入ってきて、会話を始める前におよその見当がつく場合がありますね。何かしゃべりだすと、やはりそうかとすぐ分かる場合がある。逆にしゃべっていても結局分からないという場合もある。ですけれども、経験的には何なのだろうかということをできるだけ早い時点でキャッチするという努力を医師がすべきだと思うのです。患者が求めていることは、意外に医者が思っていることと違うことが多いのですね。痛いから、痛みを取ってくれという場合もあるでしょう、どこかで癌と言われた、本当かどうかそれを確かめたくて来たという人もいるでしょうし、いろいろなのですね。
頻度として多いのが、別の患者さんから聞いた話を信じ込んで、私もその病気ではないだろうかというものです。これが意外と多い。患者同士で会話しているうちにとんでもない情報を耳にして、自分もそうではないかと思い込んでしまう。それはそうではないのだと理を尽くして話すと、何もしなくても治ってしまう患者さんがたくさんいますね。
ですから、親切ということは、やはり早く察知する努力をすることではないでしょうか」
「それとインフォームド・コンセントについてですが、この危険度は何%とか、治癒率何%とかいろいろいわれて、最後に『フィフティ・フィフティですよ。それであなたはどうします?』などと言われた患者が何人も私のところへ相談に来ます。それを思いますと、何%と言っても、あまり意味がないなと思いますね。それよりも『あなたの病気の場合、統計上の数値はこういうものがあります。しかし、私があなたの立場だったら、私はこのやり方にします。最終的な選択の自由はあなたにありますよ』という医師のサジェスションが入った意思決定のほうがよい。『フィフティ・フィフティですよ。あなたが決めなさい』と言うのは、医師として仕事をしていないのではないかと思うくらいですね」
「それと、患者を通して他の医師を批判する医師が時々いますが、医師同士が足を引っ張るという意味でよくないということもありますけれども、むしろ患者さん自身を不幸にしますね。ですから仮にどんなに悪い状態であっても『よかったですね』と言ってあげる。よかった面というのは必ずあるわけですから、よい面を引き出す努力をさりげなくやることが大切だと思いますね」


帝京大学教授 前東京大学教授、上田 敏
「外国の文献ももちろん読みながらですが、日本の実情に即した研究をしたいと思いました。筋ジストロフィなどは生活様式が畳の上で行動する時には、いざったり、這ったりする。これは欧米とは全然違うことなのです。そういうことがリハビリテーションのやり方では非常に関係が深い」
「もう一つは、リハビリテーションというのは単に寝たきりを防ぐというものだけではない。長生きする人生を価値のある、生き甲斐のあるものにしようということが大事です。これが最初に言いました、リハビリテーションというのは人間らしく生きるようにするということです。長生きしても何もすることがなくて、寝たきりではないけれども、何もすることがないというようなことのないように、生き甲斐のある人生を築くということにもリハビリテーションを大いに利用していただきたいと思います」


元社会福祉法人聖母会聖母病院院長、東京女子医科大学名誉教授、草川三治
「小児科医というのは幅の広いものでございます。頭のてっぺんから足の裏まで見る、全体を診るという習慣がついておりますから、こう言っちゃなんですが内科の先生と違いまして、わりに幅広く診る見方ができますので、かかりつけの医者として小児科医は最もふさわしいと思っております。
そういう意味からも赤ん坊の時から大人まで、ゆりかごから墓場まで、小児科医というのは、ずっと患者さんとお付き合いしてよいものだと私は思っております。」


東京大学名誉教授・恩賜財団母子愛育会総合母子保健センター所長、坂元正一
「私は一昨日母の葬儀を終えたばかりで、その死をみつめて考えることがたくさんありました」
「母は私に教えたとおりの生き方をし、死生を超越して自ら尊厳死を選んで逝ったのです。自分のことは自分で全部やっていたのですが、この1か月ちょっとばかり体の自由がきかなくなって、下の世話をしてもらう機会が増えました。これは自分の寿命なのだから、迷惑をかけないうちに、まだはっきりとしているうちに祖先のところに行きたいとも言っておりました。私は気がつかなかったのですが、孫がお祖母ちゃんがもう弱っているということで来た時に、孫に『私は水絶ちして、きれいな身体で自分で往くのよ』ということを言ったのですね。ショックでした。ちょうど亡くなる前8日前です。完全に断食、断水ですね。人間は本能的に断水は不可能ですし、90歳過ぎれば、2日も水を絶てば危険な状態になりますが、それを完全に絶ちました。まだ話ができるうちに皆に感謝して『さようなら』が言いたいと申しまして、電話を希望の方々全部につなぎ、受話器を口に当てまして『ありがとう、さようなら』と皆様にご挨拶をすませました。そして私には”宮中のことに関係しているから、喪があけた状態で御慶事に間に合うようにしたいの。これが私の願い”と申しました。やはり明治の人ですね。日本あるいは皇室を、たいへん大事に思っていまして、子供の立場も考えて、自ら尊厳死を選んだのです。2日前に支えた色紙10枚に「忍」の字を書いて、孫、曾孫に与えました。
臨死体験というのですか、最後の日には体が持ち上がってくる、上から皆が見えるよと言いました。最後に私と妹だけが子供として残り、希望どおり指先までマッサージをすると、『いい気持ちだわ、今度は覚めないように眠らせてね』。それが最後の言葉でした。花冷えの夜中、そして翌日は一斉に満開の桜が雪のように散り、何か母の皆さんへの想いが一片一片に託されたように思えました。
最後に自分の部屋で血を分けた子供に看取られながら過ごさせてやれたことが、せめてもの慰めとして医師である私の心にしっとりと残りました。これが病院だと、チューブを入れて、患者がいろいろなことを言いたいのに、それができない状態で去らせてしまうことが多いですね。そんな、いちばん寂しい状態で去らせてしまうことがいいのかどうか。母の死を見ながら、本当に考えさせられました。医の心として、私のとったやり方は許されるのではないだろうか。時が時ですので、いま私の心は揺れ動いているところです」

 

 

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